社会システム変容の研究と有識者のコラム集 コラム⑬ ガバナンス
ウェルビーイングとは、「ある人にとって究極的に良い(善い)こと」("ultimately good for a person")(1)を意味し、日本語では「幸福」とも訳される。ウェルビーイングの本質が快楽(Hedonic Well-Being)なのか美徳(Eudaimonic Well-Being)なのかといった議論はありつつも、一人ひとりのウェルビーイングを達成することは、人類にとって究極の目的であり続けた。我が国においても、日本国憲法13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を最大に尊重するとうたっており、これはまさにウェルビーイングに最高の価値を置くことの宣言だといえるだろう。
それでは、なぜ昨今、ウェルビーイングという言葉がとりわけ重要視されているのか。その背景としては、第一に、物質的な豊かさが満たされてきたことに伴い、心身の健康や持続可能な環境、人間の尊厳といった、経済的価値に換算できない多様なウェルビーイングへの需要が高まったことが挙げられる。第二に、そうした広い意味でのウェルビーイングに対するリスクが顕在化してきたという事情もある。気候変動や環境破壊、少子高齢化や地方の過疎化、所得格差の拡大、感染症の拡大といった課題は、加速度的に増長しており、こうしたウェルビーイングへの危機に備える必要性が高まっている。
ウェルビーイングを重視する社会とは、前者のように社会に生み出される価値(正のウェルビーイング)を最大化しつつ、後者のようにそれに伴う弊害やリスク(負のウェルビーイング)を一定の水準に抑制する社会である。そして、正負のウェルビーイングのバランスを最適に保ち続けることが「ガバナンス」の役割である。現代では、正負のそれぞれのウェルビーイングの要素が多様化し、相互に影響し合っていることから、両者を踏まえた最適を達成するようなガバナンスを行うことが、極めて重要かつ難しくなっている。
「ガバナンス」の手法としては、技術・社会制度(法制度や市場)・組織といった様々なものが含まれる。たとえば、自動運転車の「安全性」に関するガバナンスを考えるとき、衝突を回避するためのアルゴリズムやハッキングを防止するためのセキュリティ措置などが、技術的手法によるガバナンスである。こうした機能を罰則付きで義務付けたり、製品を販売するための認定要件としたりするのが、法規制によるガバナンスである。法で義務付けるほどではないが、あったほうが安全という機能については、市場原理によってコストと効果の最適なバランスが達成されるであろう。また、自動運転システムには、データ提供者・アルゴリズム設計者・車両製造者・販売者・利用者といった様々なステークホルダーがおり、こうしたステークホルダー間で、許容できるリスク水準を共有したり、有事の際に迅速に連携できたりする仕組み作りも重要である。ガバナンスメカニズムの設計にあたっては、こうした様々な要素の最適な組み合わせを設計することが求められる。
これだけでも十分に複雑であるが、そもそもここで挙げた「安全性」という価値は、自動運転車が達成すべき価値のひとつ(「負のウェルビーイング」の回避)にすぎない。自動運転システムの最適なガバナンスを考えるにあたっては、安全性以外にも、過疎地における高齢者の移動の確保や、環境負荷の軽減、そして経済成長への影響といった自動運転車がもたらす正のウェルビーイングの最大化も考慮する必要がある。
このように、現代社会においてウェルビーイングを達成するためには、多様で複雑な要素を考慮したガバナンスシステムを構築することが求められる。
社会においてこのような複雑なガバナンスの必要性が高まる一方で、従来型のガバナンスモデルは、このような複雑なガバナンスの在り方を前提としておらず、様々な課題に直面している。
まず、法規制は、多くの場合、技術によるガバナンスではなく人間によるガバナンスを前提としている。そのため、たとえ人間がモニタリングするより精度が高いモニタリングが技術的に可能になったとしても、なお人間の目視や常駐が求められることになる。この点については、2021年11月に設置された「デジタル臨調」において、今後集中的に見直していく方針が示されている(2)。
しかし、法規制によるガバナンスについては、より根本的な問題がある。それは、この複雑な社会において、そもそも事前に最適なルールを特定することが難しく、さらには、たとえルールを定めたとしても、変化の速い時代においてはそれがすぐに陳腐化してしまうことである。たとえば、自動運転車の安全性を確保するためのアルゴリズムを仮に法律や規則で定めたとしても、その内容はすぐに更新する必要がでてくるだろう。
他方、市場メカニズムの限界もより鮮明になってきている。サイバー空間を起点とする複雑な社会においては、需要者に十分な情報や選択肢が与えられることが難しくなる。また、圧倒的な顧客接点とデータ量をもつ一部の巨大企業が、ユーザーの取引条件を一方的に規定することも多くなってきている。多くのユーザーは、自らがアプリを通じて提供するデータがどのような方法で処理されているか、自らに提供されるサービスがどのような品質であるか、といったことを判断できないであろう。
このような伝統的なガバナンスの問題点を克服する新たなガバナンスモデルとして、経済産業省は、「アジャイル・ガバナンス」という考え方を提唱している(3)。アジャイル・ガバナンスのモデルは、①マルチステークホルダー、②アジャイル、③マルチレイヤー、という3つの要素から成る。以下、順に説明する。
社会の複雑化に伴う情報の非対称性の増大や、価値観の多様化を考えると、政府など単独の主体がルール形成やモニタリングを一手に担うのではなく、企業・政府・個人・コミュニティといった様々なステークホルダーが、協働的なガバナンスを行っていくことが重要であると考えられる。そこでは、各ステークホルダーに、以下のような役割が求められる。
企業は、サービスや商品に関する情報を最も正確に把握している主体として、マルチステークホルダーガバナンスにおける中核的な価値を担う。すなわち、自らのミッション・ビジョン・バリューなどを定義したうえで、ルール形成やモニタリング、問題解決等に積極的に関与するとともに、ステークホルダーに対して自らのガバナンスについて説明し、対話を通じてアカウンタビリティを尽くすことが求められる。
政府は、ルール形成やモニタリング、執行等を一手に担うモデルから脱却し、企業をはじめとするステークホルダーが適切なルール形成を行うよう、関係者を集めて議論を促進したり、各主体が適切なガバナンスを行うようなインセンティブ付けを行ったりするファシリテーターの役割を求められるようになる。また、(3)で述べるような信頼の基盤を構築することも重要な役割である。
個人やコミュニティは、消極的な受益者にとどまらず、ガバナンスの参加者として、社会に向けて積極的に自らの価値観や評価を発信することが期待される。そのために、自ら積極的に質の高い情報に触れるとともに、様々な価値の相互関係を理解したうえで広い視野に基づく意見形成を行うことが重要となる。
こうした様々な役割を担うステークホルダーが、それぞれのもつ情報と価値観のもとに自主的なガバナンスを行いつつ、透明性と対話を通じて他のステークホルダーとの間での信頼を醸成することが重要である。
不確実性の増加する社会においては、事前に正しいルールや責任の所在を定めておくことが困難であるため、失敗を許容しつつ、社会全体で継続的に学習し、ガバナンスの仕組みを迅速にアップデートし続けることが求められる。そこでは、各主体が、以下のような二重のサイクルを回していくことが重要である。
内側のサイクルは、概ねPDCA(Plan-Do-Check-Act)に相当する。すなわち、既存のガバナンスシステムが、当初設定されたゴールを達成するものであるか、という点に関するものである。他方、外側のサイクルは、外部環境やリスクの変化を分析し、必要に応じてゴールも見直すというサイクルである。デジタル社会においては、環境やリスク、ゴールが常に変化していくことから、これらの要素についても、継続的に見直しアップデートし続けることが必要である。さらに、(1)で述べたような協働型ガバナンスを考えた場合、このような二重のサイクルを回したうえで、各主体は、外部のステークホルダーに対し、透明性やアカウンタビリティを確保していく必要がある(右下の直線矢印)。
上記のようなマルチステークホルダーかつアジャイルなガバナンスを実現するためには、個々の主体が行うガバナンスを、都度ゼロから調査しなくても信頼できるような仕組みが必要である。そのために、IDやデータ標準といった機能について、異なるステークホルダー間での共通の信頼基盤を構築することが望ましい。たとえば、MaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)は、大まかに分類するだけでも、①身元確認、②マッチング、③決済といった複数の横断的な機能の上に、運行という個別のサービスが接続されることで成立する。こうした様々なレイヤーの重要な機能について、公的なID基盤や決済基盤が構築され、そこに接続する主体に一定の認証などが与えられることで、拡張性をもつ分散型のガバナンスが可能になると考えられる。
このようなアジャイル・ガバナンスを社会に実装していくには、適切な制度設計やインセンティブ設計が必要である。
まず、アジャイル・ガバナンスの中心的な担い手となることを期待される企業に対しては、ステークホルダーとの対話やルール形成にコミットすることこそが企業の中長期的な成長につながる、という市場の評価が醸成されることが必要だろう。ウェルビーイングやSDGsに着目した投資は相当規模になっているが、その際に、単なる理想としてこれらの用語を掲げるのではなく、実際にそれを実現できるようなガバナンスを備えていることが、投資家の評価の対象になっていくであろう。そのようなガバナンスこそ、本稿で紹介したアジャイル・ガバナンスであり、今後外部のステークホルダーがその取り組みを評価できるように、開示制度などが整備されることが望まれる。
また、制裁制度や責任制度についても見直しの必要がある。従来のように、「お上」が決めたルールを守っていればよしとするルールではなく、自らがステークホルダーと共に責任あるルール形成をしているか、それを遵守していたかを評価の対象とし、それらが満たされていてもなお事故が生じた場合には、事故調査に協力することで免責を与えるといった制度設計が考えられる。これによって、制裁や責任を回避するというインセンティブの上からも、アジャイル・ガバナンスが促進されることになる。
他方、政府にアジャイルなガバナンスをインセンティブ付けるのは、政治の強力なリーダーシップであり、それをもたらすのは、国民のガバナンスに対する強い関心である。社会の複雑さと政府に割り当てられたリソースのギャップは拡大する一方であり、それを埋めることができるのは、国民からの積極的な働きかけにほかならない。政府としては、そのことを自覚し、オープンで水平的なプロセスにより多くの民間主体と共同して政策決定を行うことが求められる。これによって、政府に対する国民の信頼が醸成され、政府はさらに質の高い政策決定を行うことができるようになるであろう。
羽深 宏樹
京都大学法学研究科特任教授。弁護士(日本・ニューヨーク州)。前経済産業省ガバナンス戦略国際調整官(〜2022年1月)。経済産業省が公表した「GOVERNANCE INNOVATION」報告書Ver.1(2020年)、同Ver.2(2021年)、及び「アジャイル・ガバナンスの概要と現状」報告書(2022年)の執筆を主担当。2020年、世界経済フォーラムGlobal Future Council on Agile Governance及びApoliticalによって、「公共部門を変革する世界で最も影響力のある50人」に選出される。東京大学法学部卒(BA)、東京大学法科大学院修了(JD)、スタンフォード大学ロースクール修了(LLM、フルブライト奨学生)。