社会システム変容の研究と有識者のコラム集 コラム③ 社会システムアーキテクチャ

    ケアとコモンズからみる、人間以上のwell-being社会へ向けて 一般社団法人Deep Care Lab
    川地 真史・田島 瑞希

    これからの社会で「あらゆるいのちをケアする想像力をはぐくむ」必要性

    ―Deep Care Labのご紹介―

    本稿のテーマについて語るにあたり、わたしたちの立場の明確化のために組織の紹介から入らせてもらいたい。Deep Care Labは、サステナブルな未来に向けて地球に存在する「あらゆるいのちをケアする想像力をはぐくむ」をミッションに、さまざまな対象にケアの気持ちが立ち上がるための実践を重ねている。

    問題意識は自身の「あり方」への疑問から始まっている。今、世の中には、たとえば気候危機、格差、生命倫理に踏み込む行き過ぎた技術革新など、たくさんの社会課題が山積している。これらの発生要因は複雑に絡みあい、1つに限定できるものでもないが、先進国が基盤としているシステムが大量生産と大量消費を促すものであることは大きな要因の1つと言えるだろう。さらにそうしたシステムがいかに形づくられているかといえば、人間の「イマココわたしがよければいい」というメンタルモデルだと考えている。現代に生きるわたしたちは、作り出したシステムからも影響も受け、この思想を強化し続けている。

    「イマココわたしがよければいい」あり方をシフトさせる方向性として、わたしたちは、Deep Care Labの名前にも冠している「Deep Care」という概念を提唱している。Deep Careとは、祖先や未来に生きる子ども、山川草木、動植物や微生物......共に関わり合うあらゆるいのちへのケアの営みを指す。わたしたちの生は、たとえば植物が生み出してくれる酸素や、他の生き物が提供してくれる食材に支えられている。消化だって腸内細菌の力を借りないとできない。さらに、今この原稿を読んでいただいているのは文字文化の成立まで人類史を遡ることもできるし、原稿を書いているPCの技術があったお陰とも言える。先人たちが積み重ねてきてくれた遺産の上に、わたしたちの生と暮らしは存在している。そして、先人たちの営みの結果を遺産として受け取ってきたように、現代のわたしたちの営みの結果は、未来に生きる子どもたちのいのちと生活にもつながっていく。わたしたちのいのちは、さまざまな現代の人間以上の存在と関係しあっている。自らの生を成り立たせているものに対する想像力をひろげ、あらゆるいのちに生かされる<わたし>になる。そして生を支えてくれているいのちに配慮し、維持・修復の営みを為していく(=ケアしていく)こと、それがDeep Careだ。

    こういった思想と立場で活動しているわたしたちが捉える、これからのウェルビーイングとコモンズについてお伝えしていきたい。

    「わたし」のウェルビーイングから「わたしたち」のウェルビーイングへ

    ウェルビーイングは「身体的・精神的・社会的に良好な状態にあること」や、心身と社会的な健康を意味する「幸福」的な概念として一般に認識されている。手法として、瞑想やヨガなどとともに「自分と向き合い、心地よさを知ること、自分の中に余白を生み出すこと」が主眼に置かれていることも多い。これらはもちろん大切なことだ。先述のDeep Careも「わたし」の状態がままならなければ、そもそも自分以外の存在にケアの気持ちを向ける余裕さえ生まれないだろう。その意味で、Deep Care的視点から見ても「わたし」のウェルビーイングは重要だ。ただ、ベクトルが自分の心地よさの追求だけに止まっているのであれば、それに対しては「それだけでよいのか?」と疑問を投げかけたい。ここではウェルビーイングという言葉自体の捉え方、そして検討の射程を再定義してみたいと思う。

    前提として、各々の豊かなライフスタイルが社会を形づくり、気候危機やパンデミックを招き、便利だが自然との関係における困難さを招いている現状を考える。こうした生存環境さえ脅かされつつある状況では、自分たちの幸福の追求のためにも、これまでの個人や組織のあり方を見直し、これからの時代の「wellなあり方」を考え実践していき、環境を整え直すことが重要ではないだろうか。そこに向き合う意識を持つためにも、Deep Care Labではウェルビーイングを一般的な定義ではなく、あえて英語そのままの「よきあり方」と捉えることにしている。

    さらに、よきあり方を考えるときの対象として「わたし」だけではなく「わたしたち」に範囲を広げていくことが、これからの時代のウェルビーイングに向き合う1つのキーになると考える。Deep Careの概念の説明でも述べた通り、「わたし」はわたしだけでは生きておらず、常に動植物や微生物、先人や未来の世代と関係して生きている。現代に生きる人間同士の関係性や営みの向上だけを見ていると意識からこぼれ落ちてしまう、共に関わり合うあらゆるいのちをウェルビーイングを検討するときの射程に含めることが、より現代の状況に即した「よきあり方」を考えることにつながるのではないだろうか。

    とはいえ、言うは易しで「わたしたち」のウェルビーイングの成立は難しい。渡邊淳司、ドミニク・チェン著の『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』にも以下のような文章がある。

    一人でいる限り、個人のウェルビーイングに良いも悪いもない。しかし、その個人が複数集まったとき、何を優先すべきか、ウェルビーイングに関する競争が生じる。ある人のウェルビーイングを満たすことは、別の人のウェルビーイングを損なうことにもなりうるのである。

    『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』:はじめに より

    これは、人間同士の間でももちろん、他種との間にも出てくる問題だ。考えるに、「わたしたち」のウェルビーイングは1つの解に収束しない。関係性というものが動的に揺れ動くのと同様に、その中での「よきあり方」は固定化されず常に揺れ動くからだ。だからこそ移り変わる状況と関係性の中で、常にそこに向き合い、考え続けないといけないのだと思う。

    向き合う中で、人間の持つ醜さや暴力性に気づくこともあるだろう。実際、Deep Care Labで「わたしたち」のウェルビーイングを考え始めた当初、さまざまないのちと共にあることに眼差しが開かれると同時に、他のいのちを一方的に奪ったり、人間の営みを効率的にするために他種のいのちを平気でコントロールして暮らしている人間の醜さや罪深さにも気づき、食べることや消毒を躊躇する気持ちが芽生えたことがあった。しかし、葛藤がひとめぐりし、人間として生きるということはその罪から逃れられないことなのだという事実を、ある種の開き直りとともに引き受けられるようになると、自分のいのちの弱さに対する謙虚さと、生を支えてくれる他のいのちに対する感謝が自然と生まれてきたのである。わたしと共にあるさまざまないのちが、自分と近い、むしろ一体の存在と感じられるようになり、壮大な歴史と関係性の中で奇跡的に生まれ、その網目の中に織り込まれているわたしのいのちの「有り難み」も実感できるようになった。受け取っている贈与に対して自分に何ができるだろうかという思いから、自然に無理なくサステナブルなアクションへの興味関心と実行の意欲も湧いてきた。さらに副産物として大きかったのは、つながりながら生きられる自分の生の瑞々しさと豊かさを感じたことだ。それこそ一般的な意味でのウェルビーイングにもつながる感覚ではないだろうか。

    「わたしたちのウェルビーイング」を考える場として2021年にDeep Care Lab主催で実施した「Weのがっこう」のプログラム参加者からも、葛藤を抱えながらも仲間の存在によって向き合う強さをもらい、逆に自分の豊かさに気づいたという声が上がっている。

    「自らの弱さ、暴力性や罪深さを受け入れ、自分が為す営みが何に加担しているのかに自覚的になりながら、答えがわからない中を進んでいくしかない」

    「葛藤もあるけれど、仲間の存在によって不安や責任を分かち合うことができ、それによってさまざまなことを引き受け、共に変わっていくことができる」

    「生かされていることに気づき感謝をする。そうすることで、はじめからわたしは一人ではなかったのだと、自らの縁起に開かれ精神的な豊かさを得られる」

    「ケアには自らと異なる存在への想像力が必要」

    (「Weのがっこう」参加者の気づき より)

    「わたしたち」のウェルビーイングに向き合い、生きることの清濁を併せのみ、痛みも弱さも含めて引き受けることで、他者からの贈与に気づく。そして贈り返しとしてのケアの意識が生まれ、「わたし」のウェルビーイングにつながる満たされ感も得られる。これは自分たちが活動を通して変化していく中で得られたある種の確信でもある。

    これからのウェルビーイングを考えるときに必要な「コモニング」の観点

    さて、ここからコモンズに話を展開していきたい。コモンズとは、草原、森林、牧草地、漁場などの「資源の共同利用地」のことを指す。これまでのコモンズの議論の多くは「住民同士の自治管理」といった人間だけの共有「財」の話に閉じていたが、先述の通り人間だけに閉じない関係性の中で「わたしたち」のウェルビーイングが成り立っているとすれば、これからのコモンズの議論も、人間以外の存在も含めたものに拡張していくべきではないだろうか。

    コモンズの語源にあたると、com(共に)-munis(贈り物/返礼の義務)という意味合いが見えてくる。コモンズの世界観には元来、場を共有する者たちが「共に贈り合う」互恵的な要素が含まれており、そこにいる豊かな互恵関係を維持するプロセスを通じてコモンズが立ち上がると捉えることもできる。コモンズが本来的に有している互恵関係について向き合い、私たちも贈り合いの営みに参加することは、ケアを実践することだとも言えるだろう。そのときに、結果として形成されるコモンズだけでなく、コモンズを形成する行為としての動詞の「コモニング」について考える必要があるのではないだろうか。ジョアン・C・トロントは、『ケアするのは誰か?』の中で、ケアのプロセスについて触れている。この「関心をむける」「配慮をする」「ケアを提供する」「ケアを受け取る」は先述のDeep Care Labの活動を通じた個人の変化にも通ずるところがあり、コモニングのプロセスにも当てはまると考えている。

    この意識の変革と実際の営みが、他種も未来の子どもたちも含むわたしたちが共有する恵みを維持するために必要だと考える。

    このような他種や他世代を含めたコモニングやケアの実践は、そうとうたっていなくても潮流として出てきている。デザインやサステナビリティ、人類学の領域では、人間中心へのアンチテーゼとして多種をステークホルダーと捉える「マルチスピーシーズ」の考え方への注目が集まっている。また、時系列の観点で言うと、利益追求のための短期的思考への反省からイロコイ・インディアンの叡智に学び、7世代先の未来を見据え未来世代とのコモニングを図るフューチャー・デザイン(高知工科大学フューチャー・デザイン研究所長西條辰義氏による)や大聖堂の思考などの超長期目線の思考などもある。哲学者ローマン・クルツナリックによる「よき祖先(グッド・アンセスター)」の観点も出てきており、人新世においてこれまでの営みを振り返り、修正しようとする流れが出てきているのは確かだ。

    Deep Care Labでも実験的にさまざまなワークショップを行ってきた。普段意識できない主体の擬人化や、ロールプレイでそのものになりきり演じること、声なき声の代弁者として代理人を設置するなどの手法を通じた意識化も効果的だ。たとえば、イオマンテワークショップは、現代の大量消費やゴミ問題を背景に、「どうしたらモノへの愛着や感謝を育めるのか?」という問いから、アイヌ文化のカムイの考え方とそれに基づくイオマンテ(クマ送り)の儀礼をヒントに、身の回りの人工物との関わり方を再検討するワークだ。ここでは、端的に言うと人工物の擬人化とロールプレイの手法を用いて人工物の気持ちを想像するワークを行っている。これをメーカー社員向けに開催したときには、たとえば自分たちが「購入」にのみフォーカスをあてその先の「利用」や「長く利用することでの愛着形成」「処分」にまで意識を向けてものづくりをしていなかったことへの気づきにつながるなど、ものづくりへの眼差しや意味付けを深めることに寄与した。また、カムイ的な思想でモノと人がやりとりできるIoTの可能性のアイデアが生まれるなどもした。

    これらは言語でコミュニケーションを取れない相手の声を人間側が代弁するという、ある意味、対象を人間側に引き寄せるアプローチがメインだが、逆に人間側が対象に寄っていくアプローチも考えられるだろう。対象を観察したり、対象の存在を感じ取っていく身体的なアプローチや、VRやARなどで目に見えない存在を可視化したり、目線をトレースするなどのやり方も考えられる。コモニングのために技術をいかに活用すべきかという論点も、まだまだこれから検討が進むものだと思われる。わたしたちも引き続き実践を通じて探っていきたい。

    これまで述べてきたように、困難さを抱える現代とこれからに求められるあり方の1つとして、人間と人間以上のいのちが互恵的に共に世界を形作る(=コモンズの生成=コモニング)ための内発的なケアの営みが挙げられる。この互恵的な関係性に向き合うことが、よきあり方としての「わたしたち」のウェルビーイングにつながっていくし、つながり感によってもたらされる「わたし」のウェルビーイングにも寄与すると考えられる。

    ここに向かうためには、個人も組織もあり方を変えていくとともに、そのあり方をサポートするシステムも必要になろう。個人や組織のあり方とシステムは相互に影響し、強化し合うものだからだ。潮流は確実に出てきているものの、双方に対する明確な解や方法論がまだないため、向き合い続け、模索しながら進んでいくしかない。「Weのがっこう」で得られたように、模索には葛藤を支え合う仲間がいることが必要だ。本稿が、共感し向き合い続ける仲間を作るきっかけになることを祈って筆を置こうと思う。

    引用・参考文献

    1. (1)渡邊淳司、ドミニク・チェン監修・編著[2020]『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』ビー・エヌ・エヌ新社
    2. (2)ジョアン・C・トロント[2020]『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』白澤社
    3. (3)西條辰義[2015]『フューチャー・デザイン:七世代先を見据えた社会』勁草書房
    4. (4)ローマン・クルツナリック[2021]『グッド・アンセスター:わたしたちは「よき祖先」になれるか』あすなろ書房

    川地 真史

    一般社団法人Deep Care Lab代表/公共とデザイン共同代表。Aalto大学CoDesign修士課程修了。web系事業会社、デザインコンサルティングを経て独立。その後フィンランドにて行政との協働や持続可能性へ向けたプロジェクトを行う。ワークショップやツールデザイン、共創プロセスを活かし、エコロジー・未来倫理・多種共生をからめたケアや、わたしを超えた他者とともに生きるための想像力をはぐくむ思索・実践をすすめる。

    田島 瑞希

    一般社団法人Deep Care Lab理事。奈良県生駒市職員(サービスデザイナー)。大学卒業後、NTTデータ経営研究所にて国内大手企業向けにサービスデザインや組織開発手法を活用した新規事業・サービス創出、海外の行政機関におけるデザイン手法の活用に関する調査研究等に従事。出産、独立後は行政でのデザイン手法活用に自らも取り組みつつ、個人欲求を乗り越え、まち・環境・未来世代を見据えた利他・利共同体に向かう個人のあり方のシフトチェンジを模索。