IOWNを支える技術解説

バイオデジタルツイン

個人ごとの身体のデジタルモデルで健康をサポート

細胞の分化や臓器の機能、臓器どうしの連関など、私たちの身体の成り立ちや働きを様々なスケールでデジタル化し、その挙動のシミュレーションを行う技術です。遺伝子や細胞のレベルの情報や過去の検査結果などに加え、新しいセンシング技術によって日常から健康状態をモニタリングすることで、個人ごとに精度の高いデジタルツインを作成し、疾病の予防や早期発見、治療の最適化や予後の改善に役立てることをめざしています。このページでは、バイオデジタルツインの中でも、特に心臓のモデルに関する研究の一端を紹介します。

技術背景・課題

IOWN によって実現するデジタルツインコンピューティングの適用領域の一つに医療・健康分野が挙げられます。バイオデジタルツイン、つまり個人ごとの身体のデジタルモデルを用いて様々な観点から身体の機能をシミュレートすることで、病気のメカニズムの解明や予防、早期発見、最適な治療法の探索など、健康に関する様々な課題への新しいアプローチが可能になると考えられます。

多くの国で死因の最上位を占めるのが心臓病です。心臓病は早期に発見して対処すること、そしていったん罹患した後も再発しないように管理することが重要ですが、最適な対処の仕方には個人差があります。そこで心臓の機能のシミュレーションが有効と考えられます。特に、心電図や画像などのように表面に現れている現象や検査結果と病気の状態とを統計的に結びつけるだけでなく、心臓の働きの元になっている心筋細胞の状態を含めてモデルを作成することで、より正確なシミュレーションが可能と考えられます。このような観点から、心筋細胞の状態と、観測される心電図との関係を結びつける研究を行っています。また、早期に異常の兆候をとらえて適切に対処できるようにする観点から、日常生活の中でデジタルツインに入力する情報を得ることができる、心臓の状態の新しいセンシング装置の研究も行っています。

技術の概要・特徴・内容

(1) 心筋細胞の状態から心電図への変換

これまでに、心筋細胞の状態を表すパラメータを入力として、物理モデルにより心電図など心臓の働きを表す情報を生成するシミュレータが提案されています。しかし、それらの方法では一般に多くの計算量が必要で、スーパーコンピュータなどを用いて長時間の計算を行う必要があるために、個人ごとの計算を頻繁に行うことは困難でした。一方で、深層学習技術の進歩により、近年ではあらゆるデータの相互変換が可能になってきています。そこで私たちは、物理モデルの入力と計算結果とを学習用データとし、人工のニューラルネットワークを訓練することによって、従来に比べて著しく少ない計算量で、学習用に用いたシミュレータに比べて遜色のない生成結果が得られることを実証しました。

(2) 心臓の働きのセンシング

設備の整った病院では高度な医療機器で心臓の働きを詳しく調べることができますが、心疾患の早期発見のためには、まだ異常を自覚しないうちに、日常生活の中で異常の予兆をとらえることが重要です。そこで私たちは、心臓の電気的活動を反映する心電図と、機械的活動を反映する心音をとらえる、簡便に使える装置の開発をめざしています。特に、体表面の複数の場所の心音を同時にとらえることができる手持ち型の実験用機器を試作して医学的検証を行っています。

技術目標・成果・効果

(1)  心筋細胞の状態から心電図への変換

心臓の働きや機能を包括的にシミュレートする方法の一つとして、心臓パラメータ(心筋細胞の状態を表す数値など)から12誘導心電図信号を合成する効率的な手法を開発しました(図1)。この手法は変分オートエンコーダ(VAE)に基づいています [1]。VAEのデコーダは心臓パラメータによって条件付けされており、これにより心臓パラメータと心電図信号との関係をモデル化することができます。学習用のデータは、物理モデルベースの心臓シミュレータによって作成されたものを用いました。実験の結果、提案モデルは経験的に重要な特徴点と全体的な信号形状を保持しながら、適切なECG信号を合成することが示されました。また、提案モデルの層数や潜在変数のサイズを変化させることで、モデルの複雑さとシミュレーション精度のバランスが取れた最適なモデルを求めました。提案手法は、ノートPC上でも、設定した心臓パラメータから12誘導心電図を瞬時に合成できます。高速性が要求される場面において、計算コストの高い物理モデルに基づく心臓シミュレータの代替となる可能性を秘めています。

図1 心筋細胞の状態からの心電図の生成システム
左側の欄で心筋細胞の状態を表す数値や条件を指定すると、標準12誘導心電図を推定して表示する。

(2) 心臓の働きのセンシング

北里大学との共同研究により、手持ち型の装置(図2)でとらえた心音の音量や共振周波数により、心不全の兆候をとらえることができるかを調べました [2]。北里大学病院に来院され書面による同意を得た46歳から87歳(平均年齢74歳)の慢性心血管疾患患者40名を対象とし、上記の装置を使用して心音を取得して、心音のうちの「1音」と呼ばれる成分のピークの音量(dB)および共振周波数(Hz)を調べました。その結果、2つの連続した心拍の間での、1音の音量(ΔS1)およびその共振周波数(ΔfS1)の差が、心不全の患者では心不全でない患者よりも有意に大きく、それらと心不全のマーカーであるNT-proBNPの値とが関連することが分かりました。1音の音量は心臓の動きの強さを、共振周波数は心臓の容積などを反映していることから、心不全が進行した場合、連続する2拍の間で心臓の動きが不均一になりがちであることを意味しています。音量や共振周波数の微小な差は人の耳で判別することは困難ですが、簡便な装置を用いることで、心不全の早期の兆候を検出できる可能性が示唆されています。

図2 手持ち型の心電・心音収集装置と使用例

想定される適用分野・PoC

私たちは、ここで紹介した研究の他にも、心身のデジタルモデルの研究を進めています。これらの技術が実用化されれば、日常生活の中で病気の兆候を早期に察知すること、個人ごとに最適な対処を行うこと、治療後の回復や維持にも最善の対応を行えるようにガイドすること、などが可能になると想定されます。

今後の展望

早期の実用化をめざし、そのために必要な検証や使いやすさの向上などの研究開発を更に進めてまいります。