2021年10月に創設された本基礎数学(1)研究センタに、2022年の春、3名の若手数学者が着任しました。それぞれが、数論幾何学(モチーフ理論)、表現論とグラフ理論(数理物理・数論への応用)、そして保型表現論(数論)を専門とする新進気鋭の数学者です。センタ統括にある私は、これまで表現論と数論の問題やその物理学との接点を研究の中心的テーマとしてきました。さらに本センタでは、客員研究員として数論力学系と調和解析・ユニタリ表現論の若手数学者も迎えています。本研究センタのプライオリティとなる研究は数学です。民間企業であるNTTにおいて、国際的に通用する高い水準の数学研究を推進することが設立の主目的です。センタの主要メンバーは、純粋数学(2)の研究者です。加えて、コミュニケーション基礎科学研究所の情報基礎理論グループより理論計算機科学と量子情報理論の研究者が兼務することで純粋数学を含む数学の基礎理論の研究を推進します。(3)そのため本センタでは、現代数学を牽引する世界の大学・研究所との積極な連携も図られます。また、2023年度中には、10名程度の若手の純粋数学者の参画を実現する計画です。ここでいう純粋数学とは、研究者の自由な発想によりその好奇心で進める数学です。それは、科学や現実社会に役に立とうとの特段の意志は横において進める数学の研究です。もちろん、既存の数学の中にある未解決問題を解決するため、という意味では役立つことを意図している場合もありますが、数学以外の科学者同様、新しい数学的事実を見出す(発見する、浮き彫りにする)、あるいは隠れている数学に光をあてることこそがその目的です。他方、数学には、多くの科学の基礎となる学問としての役割があります。実際、このことは、ガリレオ・ガリレイの“宇宙は数学の言葉で書かれている”にはじまり、ユージン・ウィグナーの“数学の不合理なほどの有用性”といった言葉にも端的に表れています(4)。すなわち、数学を役立てるということには必然性と大きな意義があるとの指摘です。それとともに、諸科学からもたらされる疑問を解決しようとするいとなみから、新しい数学が生まれ、人類の数学の世界を豊かにしてきたことも事実です。数学の進歩とその応用の発展は相即不離であるわけです。
にもかかわらず、純粋数学の成果が社会に役立つのまでの時間を読むことは困難です。それは、発見された時期や数学者の名前さえも確認が必要なほどの長い時を経た先のことになるかもしれません。一方で、これまでの数学をとりまく歴史を振り返っても、一旦応用が見出された場合、あらかじめ応用を目論んだ研究よりも純粋数学の成果のほうが圧倒的なインパクトを社会に与えてきたことがわかります。純粋数学の研究が生む基礎的な数学理論がもたらす、いわば破壊的イノベーションの可能性に期待が寄せられる所以でもあります。一例を挙げます。現代のセキュリティを支える暗号のなかで、公開鍵暗号というものがあります。なかでも、RSA暗号の役割は絶大です。実用の8割以上をRSA暗号が占めています。しかもRSA暗号は、素因数分解の難しさに根拠をもっています。実際、RSA暗号をささえる数学は、およそ2500年前の、“万物は数”と言ったピタゴラスやユークリッドの時代に遡る素因数分解の一意性です。どういう意図があったのかは明らかでないものの、素数が無数にあり、すべての整数が(掛け算の順序を無視すれば)素数により一意的に分解されることが証明されました。よく知られているように、RSA暗号方式は、1977年にリベスト、シャミア、エーデルマンにより発明されたものです。そこに使われている数学は、この素因数分解の一意性と初等整数論におけるフェルマの小定理のみです。フェルマはフェルマ予想(フェルマの最終定理=フェルマ・ワイルズの定理(1995年))で有名な17世紀の数学者です。大切なことは、これらふたつの紀元前と400年前に発見された定理も、それぞれが好奇心によって探究された点です。
数学の発展を予測するのも困難です。しかし、たとえば、いくつもの数学の未解決予想に対して、すぐれた数学者たちが長期間にわたり挑戦し続けていることからも明らかなように、その進歩は止まるところを知りません。数学においては、問題の発見、あるいは新しい問題を定式化して問うことが、問題を解決することと同じくらい重要です。たとえば、1859年の提出後163年を経て、いまもなお数学者の攻略を退けているリーマン予想というものがあります。その予想の解決のための努力の中で新しい数学が生み出され、それはいまも続いています。既存の数学の言葉、あるいは概念のなかで述べられる問題が、当時の人類がもつ言葉のなかで解決できなかった例は枚挙にいとまがありません。先に述べた、フェルマーの最終定理もその典型です。究極の素数分布を記述するリーマン予想についても、足し算の存在・利用が、その解決を阻んでいると考えられています。そのため、足し算のない世界で数学を再構築する努力もなされています。
“数学は同一視の技術”であるとはアンリ・ポアンカレの言葉です(5)。出自が異なるのにも関わらず類似点が見られる対象を、同じものだとみなすという方法を与えるのが数学だという意味です(6)。言い換えれば、数学の本質のひとつは、いろいろと散らばっているものをひとまとめにしていくという営みに現れています。たとえば、分数としては異なる1/2と3/6 が等しいというのも、有理数という概念を得て初めてできることです。ところでまた、数学のもつ抽象性は、普遍性を獲得することを容易にします。普遍化により一見まるで違っているものさえ同一だと見る見方を提供することになります。逆にいえば、数学は、さまざまな分野の科学の究極の抽象化であるとも考えられます。そのため、横串的に広範囲に適用されることが、潜在的とはいえ、数学に求められていることでもあります。数学のなかだけでなく、実験科学からの題材においても、まったく離れ離れにみえていた事実を一つにまとめあげることは数学のもつ本質的なはたらきです(7)。 どのような科学分野に対しても言えることですが、すぐに役立てるための実際問題を強調することと、長期戦略の下(研究者の自由な発想と好奇心に委ねることも含めて)行う基礎的研究の推進は、社会全体においてはバランスが必要です。この点において、数学の研究もほかの科学の純粋研究と本質的にはなにも違いません。ただし、数学においてはそれが際立って純化されたものとなります。その結果、多くの発見は、どのような応用からも遥か彼方にあるように見えてしまいます。取りも直さずこのことは、純粋数学の応用がきわめて多様で広範囲にわたることからも避けえないことを示しています。一方、民間企業の存在意義は、社会への貢献を、営業収益を伴いながら持続的に進めていくことにあります。そのため、多少の先取りを志向しつつも現実社会の需要に重きを置くことの合理性は明らかです。民間企業であるNTTにおける基礎数学の研究組織の設立は、このような一種のトレードオフを踏まえてもなお、未来に欠かせない重要な科学の進歩、そしてそれを踏まえた研究開発において、長期的視野に立った数学研究の推進の必要性を見極めたことから実現したものです。
さてここで、冒頭で紹介したメンバーの研究キーワードでもあり本研究センタの今後の活動のひとつの軸となる数論と表現論について若干のご説明をします。数論とは整数論のことです。私たちが日常的に親しみのある整数(有理整数)のみならず、例えば とかかれるガウス整数などの、より一般の“整数”を扱うことは数学においては特段重要なことです。数学の世界を広げるためにというだけではなく、フェルマー予想や素数の分布の問題がターゲットであるリーマン予想の解決にも、たんに 1, 2, 3, … と数え上げ、計算したりするのみでは不十分です。専門家の間では、そうした意味を込めて整数論を数論とよぶことが一般的です。表現論は対称性(作用に対する不変性や変換則の記述)を扱う数学分野です。ガロアの代数方程式の置換群に始まる群論がおおよその出発点です。たとえば結晶群などのような有限群による対称性の記述をとおしてそれは発展しました。その後、微分方程式のガロア理論を目指したリー群論が生まれ、保存則の記述という面からも量子力学とともに大きく発展しました。 数学は、根っこのところで種々の分野がつながっている学問です。そのため重要な研究成果は分野にまたがることが多くあります。また、つながっているところに新しい豊かな問題が隠れていることは数学史からも学べます。数学の本質のひとつは、さまざまと散らばっているものをひとまとめに捉えることだとは、先にも述べました。そうしたなかで、数論と表現論には、およそ次のような特長があります:
たとえば数論であれば、ガウスが夢中になった平方剰余の相互法則のいくつもの証明や、さらには抽象代数学を駆使する(“クロネッカーの青春の夢”と言われ、わが国の最初の国際的数学者である高木貞治の)類体論、デオファンタス方程式の解を研究などの代数的整数論があります。また、幾何学を使って数論を研究する数論幾何、保型形式やゼータ関数の解析的性質から迫る解析数論があります。しかもこれらは離れ離れにあるわけではありません。また、素数などの分布を研究する観点からは、確率論・エルゴード理論・力学系などのアプローチが有効性を発揮する問題も現れます。一方、表現論の研究者の研究のバックグランドは様々です。その理由は、先述のように表現論は対称性を扱う学問であるからです。実際、表現論の研究者は、群論や代数的整数論などの代数学が出発点である人、群などが作用する等質空間や宇宙論に必要な幾何学研究を原点とする人、代数解析など微分方程式の代数的観点からの研究、あるいは、多様体上の解析やグラフの解析をする道具の開拓から興味を深めていったひとなど、実に多様です。数学には、対称性への着目によって紐解かれる対象が多くあります。たとえば、著名なラングランズ・プログラム(8)においてなど、多くの数論の問題は対称性に着目しなければ本質が見えてきません。それが、表現論が保型形式の理論や数論幾何の展開にも必須な道具となっている理由です。
さて、基礎数学/純粋数学の研究者は、ほとんど例外なく大学の教員です。少数の例外はあるものの、日本に限らず、国際的にみても状況は同様です。大学では、研究活動を前提としつつも基本となるのは教育活動です。そのため、有力研究大学の数学教室はファカリティが50人以上の規模を誇り、数学分野を広くカバーしています。一方、基礎数学研究センタの数学者の数は前述の通り10名余です。しかし、本研究センタは文字通り研究に専念する組織です。その価値は、上記と伍するような高いレベルの研究にあります。小人数の組織ですが、今後さらに、トポロジー、微分幾何、確率論、関数解析、微分方程式論といった数学の基本的分野を背景にもつ数学者の参画を計画しています。そこでは、自由な発想のもと互いに独立な研究を自ら進めていくことを基本としつつ、共通の関心を持ち議論が活発になる組織づくりが理想です。さらにまた、IOWN構想(9)の実現に向け積極的な研究開発が進められているNTTの各研究所、とくにその基礎研究を担い計算・情報や量子物理の研究がそれぞれの大きなテーマであるコンピュータ基礎科学研究所や物性科学基礎研究所の研究者との、刺激的な交流が自ずと生まれてくることもたいへん重要です。
最後に、私の現在の研究についてすこし触れてこの紹介文を終えたいと思います。熱力学や統計力学に見られるように、物理系の研究においては、系の時間発展の様子を記述する分配関数を知ることが重要です。分配関数というものは、数学でいえばゼータ関数やL-関数に当たるものです。事実、物理系のモデルに対して、とり得るエネルギー状態の総和として定義される分配関数とエネルギースペクトルから定まるディリクレ級数(ゼータ関数)の両者はメリン変換と呼ばれる積分変換で1対1に対応しています。一見異なるものを同一視するということが数学の重要な特長ですが、両者の対応は、その好例です。こうした題材の一つとして、私は量子光学のモデルと数論を繋ぐなかで、数論や表現論の研究に携わっています。それらは一方で、量子計算や量子コンピュータの実現にも関わり、他方で、新しい数論研究の題材を開拓することにもなります。
数学は、物理学や経済学、そしていまや生命科学においてなど、幅広い学問の基礎となるものです。同時に、本センタがNTTにあることにより、そのメンバーは、数学の外からの多様な刺激を受け、同時にまた与えることができるなど、興味深い行き来も期待されます。このような環境下、好奇心と自由な発想に基づき、数学研究に必要な静謐な時空間も整えて、数学の分野で世界第一級の研究を進めていくことが本研究センタの目的です。関係各位には、将来にわたるご支援とご協力をお願い申し上げる次第です。